忍者ブログ
インド・ニューデリーのジャワーハルラール・ネルー大にて国際関係を学んでいた留学生の記録。
[117] [116] [115] [114] [113] [112] [111] [110] [109] [108] [107]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今月中旬、JNU内のブラフマプトラ・ホステル(寮)へと引っ越した。

2年目に突入し、いよいよ佳境を迎えつつある留学生活だが、これまでを振り返ると、研究活動以上に、衣・食・住への苦労が思いおこされる。寮の個室という安住の地を手に入れた今は、それらの苦労からかなりの程度解放され、研究により多くの時間を割くことが可能になった。しかし、そこに至るまでの道のりは長く険しいものであった。

インターネット環境の構築が完了し、一連の引っ越し作業を終えた今日、これまでを書き出してみることとする。

ここに語られるのは、1年以上にわたる、ある引っ越しの記録・・・。(長文)


話は留学開始直後まで遡る。

昨年7月下旬、インド政府奨学生として、このデリーの地に降り立った。空港にはインド政府の文化交流機関であるICCRの職員が迎えに来ており、ICCR近くの政府系の宿舎へと案内された。JNUの入学手続きが終わって寮の部屋を割り当てられるまでは、そこに寝泊まりすればよい、ということであった。これが留学生活第1の住まい、Bharat Scouts & Guidesである。

(1) Bharat Scouts & Guides

受付で宿帳に記入し、部屋へと案内される。そこは、2段ベッドが多数ひしめく薄暗い部屋。エアコンはない。留学生だろうか、多彩な住人たちがそれぞれにベッドの上を占拠していた。部屋の一辺は収納スペースとなっており、スーツ・ケースを入れて鍵をかけることができる。だが、その収納の扉は錠は壊れており、鍵をかけても安全ではなさそうだ。ここを使えと言われたベッドは、血か何かで汚れており、汚い。

日本からの長旅を、重い荷物と共に終えたばかりの自分は、とりあえずベッドに腰をかけて一息ついた。言葉も十分に通じない異国の地で、いきなり過酷な環境に放り込まれてしまった。一度外に出て飲み物を調達し、ついでに建物の様子をチェックし、部屋に戻り、決意を固める。ここでは無理だ。耐えられない。ホテルに移ろう。

留学開始の1年半ほど前に、留学の下見と旅行を兼ねてインドに来たことがあった。そのときに世話になった、日本語の堪能なインド人旅行会社・ホテルオーナー、ラジェンダ氏に電話をした。同氏のホテルである、パハール・ガンジのCottage Yes Pleaseはあいにく満室だが、系列のCottage Crown Plazaなら空きがあるという。ネットも使えるというので、そこへ移ることにした。

すぐに宿舎の受付に行き、その旨を伝え、チェック・アウトした。1泊分として、Rs. 300くらいを払わされたように記憶している。ほとんど利用していないのだから1泊分払ういわれはないのだが、そんなことで抗議している余裕はなかった。とにかく早く、まともな部屋で休みたい。その一心だった。

ちなみに、この宿舎の大部屋の住人の間では、自分のことがちょっとした語り草になったらしい。たった20分で姿を消した謎の東洋人、として。薄暗い部屋の中に居たうちの1人は同じJNUの新入生だったため、あとでそんな話を聞くことができた。20分ではない、30分は我慢したはずだ、と抗議しておいた。

雨のぱらつくなか、メトロのインドラパラスタ駅近くまで重い荷物を引きずって歩き、そこでオートを拾い、安宿街パハール・ガンジへ。

長旅の疲れ、重い荷物、雨。

泣きたくなるような気持ちを抑えて、ラジェンダ氏に言われたホテルにたどり着いた。

(2)Cottage Crown Plaza

そこは、とても新しいホテルのだった。ホテルといっても、いわゆる途上国の安宿で、建物はボロい。しかし部屋はきれいで、無線LANや冷蔵庫、エアコンも完備していた。1泊Rs. 900。スタッフの対応はさっぱりしていて、親切とは言えないが、言ったことはしっかりやってくれるし、よけいな干渉はしてこない。誠実な商売をしていた。ネットもそれなりにちゃんと繋ぐことができた。

JNUの寮の部屋に移れるようになるまで、このホテルを利用することとした。

数日のつもりが、実際には1週間以上このホテルに滞在することとなった。その間、JNUへの移動はやっかいだった。

初め数日は、何を血迷っていたのか、バスを使った。せっかくのインド生活だから安くあげようという浅はかな考えがまだあったころの話だ。JNUへと至る615番のバスを見つけるのも一苦労、バス停でバスに乗るのも一苦労、乗ってからもJNUまで1時間以上、バスで揺られるのも一苦労。インドでバスに乗っていることの辛さは、経験のない人にはなかなか伝わらないだろう。路面の酷さと運転の荒さ、そして車体のボロさのため、揺れが激しい。座れればかなりマシだが、そうでなければ体を維持するのも大変だ。ホテルからは、メトロ(地下鉄)でコンノート・プレイスまで出て、そこからバスでJNUまで、トータルでホテルから片道2時間くらいかかった。往復で4時間。移動だけで、多くの時間と体力を消耗してしまった。

すぐにバス利用を断念し、オート・リクシャーへと切り替えた。しかし、ホテルのあるパハール・ガンジからJNUまで行ってくれるオートを探すのはちょっとした骨だ。ときには、メトロでコンノート・プレースや官庁街(セントラル・セクレタリアト)まで出てからオートを拾うこともあった。

JNUでの入学手続きは、初めの関門で、卒業証明書等の提出済み書類のオリジナル(原本)を持ってきていなかったという重大問題に直面したが、ICCRに提出したものを一時的に借りるという裏ワザによって、クリアした。それ以外は順調に進み、開始から3日ほどで手続きをほぼ完了した。唯一、寮の問題を除いては。

インドに着いた翌日、入学手続きをスタートさせる前日は、日曜日だった。知り合いの日本人学生に頼り、JNUを案内してもらった。JNUには数多くの寮があるが、その中から2つ、その友人を含めて外国人学生が多く住むチャンドラバーガー・ホステルと、Ph. D.課程の学生などシニアの学生が住むブラフマプトラ・ホステルを訪ねた。ブラフマプトラでは、ある日本人学生に部屋を見せてもらった。

彼ら日本人学生から教えてもらった話では、おそらく、M. Phil.課程に在籍する自分は1人部屋のみの男子寮であるブラフマプトラを割り当ててもらえるだろう、とのことだった。チャンドラバーガーなど他の寮は2人部屋が基本だ。2人部屋での暮らしなど耐えられそうもなかった自分は、ブラフマプトラを目標に定めた。

そして寮の割り当てを担当する学生課(Office of Dean of Students)での入学手続きを迎えた。そこではもちろんブラフマプトラを希望したが、「空きがない」の一言で、却下されてしまい、チャンドラバーガーとなってしまった。その対応に納得できず、ブラフマプトラを訪ねて実際に空きがあることを確認し、つまり担当者が嘘をついているという点を糾弾して交渉を展開し、学生部長との交渉までたどりついたが、結果はダメだった。教授が務める学生部長は、外国人学生である自分の事情に理解を示したうえで、M. Phil.の新入生はすぐにはブラフマプトラに申請できないという規則を説明し、だから2~3ヶ月待ってほしい、と丁寧に説明してくれた。極めて正当な説明であり、こちらとしては引き下がらざるを得なかった。

しかたなく、チャンドラバーガーに入って待つことにした。このときは、本当に「2~3ヶ月」で移れるとはさすがに期待していなかったが、そこから1年を要することになるとは思ってもいなかった・・・。

(3)Room no. 005, Chandrabhaga Hostel

学生部長との交渉は金曜夕方だった。そこでチャンドラバーガーに住まう決意をしたわけだが、手続きが間に合わない。週末まではホテルで過ごし、翌月曜日、重い荷物を抱えてチャンドラバーガーに乗り込み、手続きを行った。

数年前にできた新しい寮だと言うが、そのときは信じられなかった。今、他のホステルと比較すると、確かにマシだということがわかるのだが、当時はあまりのボロさに新しいということを受け入れられなかった。

割り当てられた部屋は地上階の005号室。日本語で言う1階、インド英語(イギリス式)ではground floor、アメリカ英語ではfirst floor。東向きの窓があり、日当たりはよい。2つのベッドと机があり、それでほぼいっぱいになってしまうくらいの広さ。

同日、フランス人留学生のTも同じ部屋を割り当てられた。聴講生として1セメスター5か月間の在籍だという彼は、まだ学部を終えたばかりの若者だった。観光気分の彼と、研究に身を賭す覚悟で異国の地に乗り込んでいる自分では、ずいぶん温度差があった。それと、かなりTはわがままな気があった。「俺はこっちのベッドを使うから、おまえはそっち」というような。お互いに英語もつたなく、コミュニケーションにも問題があった。こっちは砕けた会話表現がわからないし、向こうは難しい単語を知らない。そのような状況であったので、翌日、ルームメイトを変えることを自分から提案した。ドイツ人学生が何人かいるから、自分と彼らのうちの誰かと部屋を交換するのはどうか、と。

Tと一緒にやっていけないと思うに際して、最も決定的だったのは、いろいろとサポートをしてくれる寮の周りのインド人学生に、まるで使用人に接するかのごとき態度を取ったことだ。異国の地でのストレスもあったのだろうが、ヒステリーに近い状態だった。もちろん、Tのインド人学生に対する態度に自分が失望していたことなど彼は知るべくもないので、あとで人づてに聞いた話では、Tはルームメイトの日本人になぜか嫌われてしまった、と思ったそうだ。その一件がなくてもかなりの自己中のTではあるので、そのあたりを自分で認識していないのは残念なことだ。

そんなわけで、2日目にして、部屋を移ることになった。ドイツ人との入れ替わりというのは、寮のある部屋に日本人とドイツ人の組み合わせがあったので、そこのドイツ人と入れ替わり、日本人同士で部屋を共有することを想定していたのだが、Tが別の部屋のドイツ人を見つけてきて、彼と入れ換わってほしいと言ってきたので、Tの提案を受け入れた。

(4)Room no. 007, Chandrabhaga Hostel

移動した先は、2つとなりの007号室。ドイツ人学生と入れ替わり、その部屋にいたエチオピア人のEがルームメイトとなった。

アフリカのエチオピアというと雄大な大地を想像するが、Eはエリート家族の都会っ子。姉は外交官としてヨーロッパにいるという。虫なんて大嫌いな綺麗好き。だから部屋の窓は開けておくことを嫌った。Eはシャイで、互いに口数は少なかったが、互いを尊重する大人の関係でうまくやっていくことができた。

ここでの暮らしは悪くなかった。寮の食事も耐えうるものだった。レストランの料理とは違い、寮の料理は、味が薄く、油やスパイスの使用量が少ない。要するに、インドでの感覚としては、安い料理だ。だが日本人にとっては、そのほうが食べやすく、また健康にもいい。次第に、チャパティーと白飯のまずさに嫌気するようになったが。洗濯は、ドービー(洗濯人)に頼めばよいので、楽だった。

とはいえ、このままチャンドラバーガーに安住するつもりはなかった。2人部屋という、プライバシーの欠如はやはり耐えがたいものがあるし、また、単純に部屋が狭すぎた。冷蔵庫や大型本棚の導入をしたかったが、それには部屋が狭すぎた。

そこで2つの手を打った。

1つは、ブラフマプトラへの申請である。一度チャンドラバーガーに部屋を割り当てられたからには、今度はホステルを移るための手続きが必要となった。だが、遅々として進まなかった。まず、学生課に申請書類を取りに行ったのだが、「今は新入生で忙しいからまた今度来い」、「お前はまだ移れないからダメだ」などで何度も門前払いされた。何度目かわからないが、あるとき、ようやく申請用紙を手にすることができた。そのときOKで、それまでダメだったことについて、正当な理由はない。

つぎに、申請用紙にはチャンドラバーガーの寮監からサインが必要になるのだが、これがもらえなかった。規定により、学生は1つの寮を割り当てられてから6か月は寮を移る申請ができない。ゆえに、サインはできないということであった。学生部長の「2~3か月待ってくれ」は何だったのか。この寮監は誠実に仕事をこなす人物(所属研究科の教授)で、規則に厳密なことで有名であった。他の寮では規則にもかかわらず簡単にサインをもらえていたのだが。そのような人物であるので、こちらも正攻法を採った。自分がすでに研究業績を有する学生で、制度上今はJNUのM. Phil.課程にいるが日本ではPh. D.にすでに在籍していたこと、大量の本の保管などにより広い部屋が必要であることなどを文書にしたため、まずは寮の事務官に理解をしてもらい、寮監にも納得してもらい、ようやくサインを得て、学生課に申請書類を提出した。提出を完了したときは、すでに10月になっていただろうか。ブラフマプトラに空きはなかったため、ウェイティング・リストに名前が記載され、さらに待つことになった。この時点では、「つぎのセメスターにはもらえるだろう」との話だった。

ブラフマプトラへの移動には時間がかかることがわかってきた。そこで、もう1つの手を打った。学外に住まいを構えることである。

8月のある日、おなじ研究科のヴェトナム人学生Q氏に、夕食に招かれた。JNUの正門から徒歩3分、ムニールカー村(Munirka Village)に位置する、アパートの1室。Q氏とその奥さんの2人でそこに暮らしていた。6~8畳くらいの1部屋に、キッチンとバス・トイレが付く。家賃はRs. 4,000(電気代、共有地掃除代別)。奥さんの手入れが行き届いておりきれいなその部屋に、自分は関心を示した。すると、Q氏は、そのアパートに空き部屋があるだろうから、どうだ、と言う。知人が同じ建物にいれば安心だということも考えて、そのアパートに移ることを考えた。実際にその時点では空きはなかったが、8月末時点で空きが出たところでQ氏がその部屋を抑えてくれたので、9月1日付で契約した(といっても管理人にお金を払っただけだが)。

(5)Munirka Village

いまだに正確な住所を知らない。一度だけ郵便をそこに送ってもらったことがあったが、届かなかった。日本での常識に照らせば、スラムにしか見えないかもしれない、雑然とした住宅地の中のアパートである。車は通れない幅2m弱の細い道に面している。交通量は多い。人、ロバ、牛、バイク、荷台つき自転車などが日中は盛んに往来している。人通りが多いことは、安全面では好ましいことだ。

9月1日に部屋を契約してから、まず始めたことは、徹底的な掃除だ。奥さんが念入りに掃除をしてくれるQ氏の部屋と、しばらく放置されていた自分の部屋では、雲泥の差だ。スーパーで各種洗剤など掃除用具を買いこみ、何日かにわたり、入念な掃除を行った。

それから、段階的に物資の購入と移転。冷蔵庫、本棚、食器類、水をためる巨大バケツなどなど、これらは新たに購入した。また、チャンドラバーガーでは折りたたみ式の安いマットレスを、日本人学生から借りて使っていたが、ちょっと値の張るマットレスを購入して搬入した。荷台付きの自転車といっしょにムニールカーのマーケットから自室まで歩いたことも、今となっては思い出。

いろいろ買い込んだが、あくまでここはブラフマプトラに移るまでの仮住まい。だから、本格的な机は買わない。ベッドも買わない。それらは寮には備え付けられているので、買う必要がないからだ。そのため、ムニールカーでは、日本の和室のように、床での生活を行った。カーペットを敷き、その上でくつろぎ、高さ30cmほどの安い小机をいくつか並べてそこで勉強した。マットレスは床に直置きにした。

準備が整った9月中旬から、ムニールカーでの生活をはじめた。寮とは違い、さまざまなトラブルに自分で手を打たねばならないのはいろいろと面倒だった。また、常に安全面での警戒を欠くことはできなかった。周囲の住民とは、著しい経済格差がある。それは確かだったし、周りから見ても明らかだっただろう。言葉ももちろん苦労した。当初のアパートの管理人は、まったく英語ができない。英単語を使おうという意思がまったくない。数字すらダメ。だから、コミュニケーションが成り立たなかった。向いのアパートに住む、北東部出身のインド人たち(彼らは概して英語が上手い)に助けてもらうことも何度かあった。管理人はドービー(洗濯人)の仕事もしていたが、どうもアイロンかけだけで、水洗いはやっていないとのことだった。なので、洗濯物は、わざわざチャンドラバーガー寮のドービーに頼んでいた。1人暮らしで食事の面倒さも味わった。それと、お湯を大量に沸かす設備がなかったため、冬のシャワーには困った。インドといえども、デリーの冬は寒い。お湯なしでのシャワーは無理だ。なので、冬の間は、チャンドラバーガーの007室に行き、そこで着替えを行い、シャワーを浴びていた。

ブラフマプトラへ移ることがなかなかできなかったため、ムニールカーでの暮らしは長引いた。12月上旬に第1セメスターが終わり、1月から第2セメスターが始まり、5月にはそれも終わった。ブラフマプトラの進展はなく、ムニールカーで半年以上を過ごし、5月中旬までのインド留学1年目は終わった。

その間、ムニールカーでの暮らしで大きなトラブルはなかった。強いて言えば、一度サンダルを盗まれたことがあったが、そのくらいだろう。

今年7月、日本からインドに戻りスタートした2年目も、ムニールカーから始まった。しかし間もなく、夏休み中に、自分がブラフマプトラに移る許可が出ていたという情報を耳にした。それは5月のことで、その掲示はすでに撤去されていた。友人の指摘がなければ、気付かずじまいだったかもしれない。

(6)そしてBrahmaputraへ・・・

ブラフマプトラ・ホステルに移るための申請を出し、長らく待った末に許可をもらった学生は1週間以内に移行手続きを行わねばならない。自分のケースでは、夏休み中に許可が出て、手続き期間はとうに過ぎてしまった。しかし、夏休み中のことであり、手続きをできなかったことには明らかに正当な理由がある。だから、期間は過ぎてしまったが、手続きを行ってすぐに移れると思っていたが・・・ここはインド。そう甘くはなかった。

まず学生課に行き、その旨を告げた。すると、もう一度申請書を出せという。その申請書がもう一度必要とされるいわれはなく、まったく理解不能の指示だが、それさえ出せばすぐにでも移れそうだったので、とりあえず指示に従ってみることにした。フォームを埋め、チャンドラバーガーの寮監のサインをもらいに行った。すると、今年度から寮監は新しい人物になっていた。寮には寮監用の住居が併設されているのだが、そこには住んでおらず、夕方に寮監の仕事をこなしに現れる。しかも時間が一定でなく、事務スタッフたちはそれを把握していない(この寮監を捕まえるために、この先何度か大幅な時間のロスをした)。そこでサインを求めるが、そのサインをするには、自分の寮での在籍期間を確認する必要があるという。事務スタッフに確認をさせておくから、明日来いという。これで1日ロス。そして翌日行くと、なんと、サインはできないという。寮監がいうには、寮の移動をするには、1年間そこに滞在してからでなければならないという。規則が変わったのか、寮監が勘違いしてるのかはわからない。すでに学生課の許可が出ていることや、前寮監のときに申請をすでに行ったことなど、事情を説明するが、埒が明かない。この人物は、こちらの話を聞こうとしないのだ。自分の責任を問われたくないから、やっかいなことはしないのだろう。規則に厳密という点では前寮監と同じだが、学生の声に耳を傾ける意欲はまったく違う。ともかく、これでは手詰まりだ。

そこで、作戦変更。学生部長あてに、手続きが遅れたことを認めてもらうためのレターを書くことにした。そもそも、申請書を再度提出させられるいわれはないのだから。

PCでレターを作成し、学生部の事務官に提出した。思いのほか、すんなりと受理された。4日後に来いという。4日後訪れ、その返事をもらおうとするが、そんなレターは知らないと言う。何と、彼らはレターを紛失していたのだ。そこで、これまでにも嘘の言い訳やいい加減な指示を重ねてきた担当者に見切りをつけて、状況を見ていてくれた他の事務官にレターを託すことにした。その場で手書きし、信頼できそうな事務官に、学生部長のサインと手続きを頼んだ。そしてようやくその2日後、そのレターに学生部長のサインをもらうことができた。このとき、紛失していたレターも同時に発見されて出てきた。担当者の机の中に放置されて入っていたのだ。

これでめでたく、ブラフマプトラに移る許可が出た。あとは、ムニールカーに住んでいる間も籍は残っていた、チャンドラバーガーの退出手続きを残すのみだ。

チャンドラバーガーの寮監はまたしても不在だったので、事務官にレターを手渡す。学生部の指示を確認する必要があるから、翌日また来いと言う。翌日行くと、退出にはフォームの提出が必要だと言い、渡される。なぜ昨日それを渡さない。すぐに記入を済ませて、必要な支払いも行い、食事の管理人、雑務の管理人(ケア・テイカー)、会計担当者のサインをかきあつめる。あとは寮監なのだが、例によっていないため、ケア・テイカーにフォームを託し、サインをしてもらっておくことにした。

そして翌週月曜日、ケア・テイカーを訪ねる。この人物は新任の若者なのだが、朝は遅刻が通例。下っ端の若造のために時間を無駄にされるのは耐えがたいものがある(年寄りなら許せるという話ではないが)。1時間遅れで現れたケア・テイカーを捕まえると、なんとまだもらえていないという。ケア・テイカーは、金曜日に寮監が来なかったからだというが、これは嘘だった。この若造が単にミスをしただけだ。仕方がないので、夕刻、寮監が来る時間帯に再びチャンドラバーガーへ。しばらく待って、ようやく現れた寮監からサインを受けることに成功した。そのサイン1つのために、どれだけの時間を無駄にしたことか。

もう夕方であったので、ブラフマプトラでの手続きはさらに翌日へと先送りとなった。

ブラフマプトラでの手続きはものの数分ですべて完了した。その後、部屋の清掃を行い、その日のうちに、荷物を搬入し、生活を開始した。

通例であれば、数日かけて部屋の塗装をし直してから部屋に入るのだろうが、それほど壁は汚くなかったため、それは行わなかった。

それに、もうこれ以上、部屋のために時間を無駄にしたくはなかった。何せ、1年以上も待ったのだから。

4df79cfe.jpeg
PR

コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


忍者ブログ [PR]
プロフィール
HN:
toshi
性別:
男性
自己紹介:
2008年7月から2010年5月まで、ジャワ―ハルラール・ネルー大学留学。
本棚
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
カウンター