インド・ニューデリーのジャワーハルラール・ネルー大にて国際関係を学んでいた留学生の記録。
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夜10時過ぎ、遅めの夕食を学内のダーバー(屋外の食堂)でとった。そこでたまたま出くわした日本人の知り合い(同じ寮の人)と一緒に。モモとトゥクパを食べて、その後もしばらくチャーイを飲みながら話をしていた。その後、一緒に歩いて寮へ。
その途中、異変に気付いた。 携帯がない。 落としたのだろうか。それとも部屋に置いてあるのか。確信が持てない。 とにかく部屋に戻ってからだ。 寮に戻り、あわてて携帯を確認するが、やはりない。 自転車で引き返す。道を探しながら、ダーバーへ。見つからない。 また部屋に戻る。もう1台の携帯(日本の)を使い、失くした携帯にかける。呼び出し音は鳴っている。携帯自体は無事だ。一安心。 だが誰も出ない。深夜でも人出の絶えないダーバー付近に落ちていれば、誰かが拾ってくれそうなものだが。途中の道にでも落ちているのだろうか。 もう一度、今度は固定電話を使ってかける。長く鳴らしてみた。しかし出ない。 悪意の人が拾ったならば、SIMカードを抜いて機体を転売するだろう。今のところ、SIMカードは抜かれていない。ということは、どこかに届けられたか、落ちたままかだ。 寮からダーバーまでの道は徒歩20分ほど。携帯を鳴らしながら、道端を探すのはなかなか容易ではないだろう。 困った。 もう一度かけてみた。 すると、今度はすぐに出た。 しかも、出てくれたのは、クラスメイト。 すぐにそのクラスメイトの部屋に行き、携帯を受け取った。助かった。 事の経緯はこうだ。 ダーバーで携帯を拾ってくれた人が、直近の通話履歴を頼りにクラスメイト(K)に連絡をしてくれたのだ。 ダーバーはそのKの寮に近く、Kがダーバーまで出向いて受け取ってくれた。 Kはそのことを自分に伝えるべく、自分と同じ寮の共通の友人(R)に電話。Rは自分の部屋を訪れてくれたらしいが、留守だった(帰る途中か、外を捜索中)。 その後、自分が携帯に電話をかけ、Kの部屋にあった電話をKのルームメイトMが受けてくれた。Mも自分のクラスメイトなので、すぐに話が通じた。 要するに、いい人が拾ってくれて助かったということ。 PR
昨日、もう1カ月近く前になってしまった旅の記録を書き出してみた。旅の間毎晩付けていたメモと、レシート類と、写真とを手掛かりに。
旅の初日のメモ書きの最後には、一言、「謙譲」と書きつけられていた。 初日から違和感として感じ、その後も旅の間、しばしばこのことを感じ、考えていた。 なぜ、スィリグリーからダージリンまでをたったRs. 500で走らされた運転手は、自分にチップを要求しないのか。 露店の店員は、どうしてこんなに腰が低いのか。 タクシーの運転手も決してふっかけてこない。 チャーターしたタクシーの運転手は、約束の時間に遅れてなんかないのに「遅れてすまん」とあやまってきた。 今回の旅の間に出会った東アジア系の顔立ちの人々(残念ながら、見分けはつかない。ネパール系、シッキム系、チベット系など)は、謙譲と誠実の精神に充ち溢れているように見えた。 デリーの人々が誠実でないと言っているのではない。しかしデリーに謙譲の美徳はないと思う。 強くあることを要求されるデリーとの違いに、初めは戸惑い、そして親しみを感じた。おそらく、日本の文化との共通性を見出していたのだろう。 しかし、次第に、その共通性への疑念が募った。本当にそうだろうか、と。もはや東京には残存しない過去の美徳を、あるいは過去にも存在していなかった想像上の美徳を無理やり重ね合わせているだけではないのか。 ダージリンやシッキムへの愛着を感じさせたのは、彼ら現地の人々の性質のためか、それとも類似性を勝手に見出そうとする自分の思いのためか。おそらくは両方。 また、文化の背景についても思いをめぐらせた。 おそらくは閉鎖性ゆえ。 狭く、閉ざされた社会ゆえに、たがいに抑制し、衝突をさける。そうした合理性に基づいて発達した文化なのではなかろうか、と。日本のいわゆる村社会のように。きっと、それゆえの難しさもあるのだろう。
10月19日(月)
7時にチェック・アウト。とはいっても鍵を渡しただけ。結局パスポートのチェックはなかった。 今日は鉄道で移動。それだけで終わってしまうだろう。 昨夜と同じレストランGlenary’sのカフェの方へ。まだ店内で食べることはできなかったので、マフィンをテイクアウト。このとき、また昨夜の日本人一家と遭遇した。 朝食を食べ損ねた分、早く駅に着いてしまった。すぐ隣にゴンパがあったので、そちらを見学。 しばらく駅で出発準備の様子を眺めてから、乗車。9時20分発。 客車は3車両のみ。ファースト・クラスが1つ。他はセカンド・クラス。ファースト・クラスは3列座席で、スペースにゆとりがある。 交通量の多い車道と共有になっている部分も多い線路なので、車に遮られて進めないのではないかと懸念していたが、思いのほかちゃんと進む。車のせいで停止することはほとんどない。 また、長時間の停車はない。駅では唯一、クルシャンで5分間の停車。なので、途中で食料を購入するのは容易でない。 グーム(Ghoom)やクルシャンで降りる客が多い。 途中、雨が降っていた。かなり強く。 到着は午後5時20分。およそ8時間の長旅であった。ゆったりと、変わりゆく景色を楽しむことができた。しかしさすがに疲れる。 駅からオート・リクシャーを拾って、シッキム州政府事務所の前で降ろしてもらう。入境許可証を得た際、この周辺がホテル街なのを記憶していたからだ。スィリグリーに関してはほとんど情報がないので、冒険はしない。 マニラ(Manila)というホテルに決めた(デラックス、ACなしでRs. 850)。大通り沿いで、きれいな外装。中はさほどでもなく、日本のビジネスホテルくらいのランク。かなり混んでいた。 近くのバーに繰り出す。ビールはデリーでもお馴染みのキングフィッシャー・ストロングしか置いてなかった。フィッシュ・フライとパニール・フライをつまみに。パニール・フライは、文字通りのパニールの素揚げ。何の味付けもないので、塩を持ってきてもらった。するとその塩はブラック・ソルト(岩塩を砕いたもの)で、まろやかでおいしかった。 その後、ホテルのレストランへ。いろいろ注文したのだが(またビールも)、ここで衝撃的だったのは、ダール・マハラジャ(Dal Maharaja)。写真左。とにかく美味い。ダールという概念に収まらない。アムリトサルで食べたブレイン・カレーを彷彿とさせる味だが、あれは羊の脳を使っている肉料理なので、そういう味になるのは納得できる。しかし今回はダール(豆)だ。なぜダールでこの味になるのか。クリーミーで、旨みがあふれる。さっぱりわからない。 この旅最後の夜はこうして終わった。 10月20日(火) この日はもう帰るだけ。 朝、ホテルで朝食をとってからチェック・アウト。レセプションでオート・リクシャーの相場を聞いてから、オート・リクシャーを拾いバグドグラ空港へ。 この空港の警備は非常に厳しい。インド国内ではこれまで経験したことのない厳重さだ。おそらくは、ここが軍と共用されているためであろう。そのため、セキュリティ・チェックは時間がかかる。ターミナルのロビーから滑走路を撮影することも厳しく禁じられている。 帰りの飛行機は日本の団体客と一緒だった。今回のフライトは経由便から直行便に変更されていたのだが、彼らはそれを知らなかったようだ。団体客の添乗員が、なかなか経由地に到着しないことに心配してフライト・アテンダントに聞き、それでようやく気付いたらしい。自分は1週間ほど前に連絡を受けていたが。 空港からはタクシー(Easy Cabs)で帰った(Rs. 245)。 この旅は移動がいちいち大変で、非常に消耗したが、行ってよかった。時期もよかった。無理をして行った甲斐があったというものだ。
10月18日(日)
ディーワーリーの騒ぎは、思いのほか早くおさまった。おかげでしっかり眠れた。 朝6時起床。ホテルのスタッフを起こしてチェック・アウト。スタッフが現地の言葉で話しかけてくる。だからネパーリーじゃないんだって。彼は自分が外国人だとわかって、ばつが悪そうにしていた。 こんなに早く起きるのは、今日またダージリンに戻るため。今日中にダージリン・ヒマラヤ鉄道の手配をして、明日それでダージリンから一気にスィリグリーまで行くことにした。 MGロード近くのジープ・スタンドに行ってみるが、やはり違った。ダージリン行きは、来た時と同じく、やや「下」の市営タクシー・スタンド発着。そこまでタクシーで移動(Rs. 60)。 ダージリン行きの相乗りジープ(Rs. 150)。今回もまた限界まで人を載せて、7時ごろ出発。気持ちが悪くなり、はきそうになる。車酔いする体質ではないのだが、疲れのせいだろうか。いや、昨日の酒か。11時ごろ到着の4時間の移動。ダージリン、再び。 まずは鉄道駅で明日のチケットの手配。とても対応が良い。空いており、すぐにチケットを購入できた。ダージリンからスィリグリー・ジャンクション(Siliguri Junction)まで(1stクラスでRs. 250くらいだったと思うが忘れた)。およそ7時間かかると言われた。スィリグリーには2つ駅があるが、鉄道ターミナルがあり、市街中心に近いのはこのジャンクションのほう。 次は宿探し。『ロンプラ』『歩き方』掲載のアリス・ヴィラ(Alice Villa)へ。ちょっと迷ってようやく到着。なかなか見つからないと思ったら、一度通り過ぎていた。で、せっかく見つけたのに、部屋の空きがなかった。 ダージリン中心となっているチョーラースターという広場を望むベルビュー(Bellevue)というホテルへ。ここも結構混んでいたようだ。Rs. 1,000の部屋に決めた。山小屋風で、かなりボロい。コンセントがことごとく壊れており、携帯を充電できなかった。ダージリンで最初に泊まったデカリンがログハウス風なら、こちらは昭和の山小屋風だ。お湯も少ししか出ない。その代わり、部屋は広い。 チェック・イン時に、パスポート情報の記載を求められなかった。次の客(欧米系)は要求されていた。自分はまた地元民扱いなのだろうか。自分も英語でしゃべっているのに。 さて、今日はダージリン観光だ。 まず、ホテルから徒歩でブティア・ブスティ・ゴンパ(Bhutia Busty Gompa)へ。歩いて行くしかない場所だが、結構距離があった。しかも、時間が悪かったのか、僧がおらず、中の見物はできなかった。 一旦チョーラースターに戻り、カフェで昼食(モモ)をとり、それからタクシーを拾ってハッピー・ヴァレー紅茶園(Happy Valley Tea Garden)へ(Rs. 600往復、待ち時間込み)。街道から細い道をしばらく降りて行かねばならない。普通は街道から歩いて行くところなのだろうが、タクシーの運転手はかなり細い道に突撃していった。近隣のみなさん、ご迷惑をおかけしました。茶畑見学。日本の茶畑のように、整然とはしていない。そもそも地形的にそれは無理なのだろう。工場は案の定閉まっていたが、その近くにあった売店でちょっと紅茶を購入した。何カ国語も巧みに操るやり手おばさんがそこにはいた。商売人気質全開のこういう人は、この土地には似つかわしくない。 そこから街道に戻ってすぐのところに、ヒマラヤ登山学院と動物園がある。入場料は、外国人Rs. 100。インドの大学に通う学生だと言ってみたがダメだった。謝られてしまった。いっそのこと、ヒンディーでも使って地元民のふりをすればいけたかもしれない。 登山学院は博物館を見学できる。入ってみてから気づいたのだが、自分はまったく登山に関心がなかった。あっさり通り抜けて見物修了。 動物園を散歩して車に戻った。 チョーラースターの広場では催しものをしていた。近くの店の店主によれば観光客向けのイヴェントだそうだが、言葉は現地語だし、観光客向けとは到底思えない。日替わりでいろいろとやっているらしい。 ディナーは『ロンプラ』掲載のグレナリーズ(Glenary’s)で。ビールはブラック・ラベル・プレミアム(Black Label Premium)。ウェスト・ベンガルのオリジナルかと聞いたらイエスだというから注文したのに、バンガロール産じゃないか。だまされた。また温い。味は、標準的なピルスナー。(比較的)しっかりと重みがある。チキン・ティッカとポークの炒め物をつまみに。 ちなみに、このとき隣の席は日本人の家族連れだった。 主食はチベット料理で締めようと思い、デカリン・ホテルの隣、クンガ(Kunga)を訪れる。だが満席。モモのテイクアウトを頼むも、今忙しいから無理と一蹴される。 仕方なく、露店のモモを買い、ホテルの部屋で食べた。非常にまずいモモだった。 就寝。
10月17日(土)
今日はディーワーリー。 ホーリーと並ぶインドの重要な祭日。もちろん文字通りのお祭り騒ぎが予想される。デリーでは、ほとんどの店が早く閉まってしまう。ガントクではどうなるのだろうか。多数を占めるネパーリーにとっても重要な祭だと聞くが。 朝9時。タクシー(Rs. 60)でエンチェイ・ゴンパ(Enchey Gompa)を訪れる。小さな僧院。雰囲気はいい。 到着時には多くのタクシーが止まっていたのだが、いざ帰ろうとすると、1台もいない。そこで、帰りは歩いて戻ろうなどと思ってしまった。「行きはタクシーを使ったほうが楽」という『歩き方』の1節にたぶらかされたからに他ならない。 だが、下り坂を歩くのはきつい。それに道もよくわからないし。なので、途中で断念して通りすがりのタクシーを拾い、次の目的地のロープウェイを目指す。王宮に近いタシ・リン(Tashi Ling)駅に行ってもらうように言ったのだが、そちらには入れないのだろうか、隣の駅(3つあるうちの真ん中)に連れてこられた(Rs. 60)。ちなみに、この運転手に目的地を告げたとき、「なんだ、ネパーリーじゃないのか!」と驚かれた。このように、外国人扱いされなかったことがこの旅で何度かある。自分が観光客だとわかり、運転手はルムテクのゴンパが良いと勧めてくれた。じゃあそこに連れていてくれと言うと、あっさり断られた。てっきりその運転手が自分をそこに連れて行きたいのかと思いきや、そうではなかった。単純に親切心から教えてくれただけだったのだ。 ロープウェイは往復Rs. 60。往復して同じ場所に戻ってくることが前提になっているらしく、そういう誘導をされる。なかなか良い景色。 ロープウェイ駅からMGロードはすぐ。歩いて移動。ダージリン・ヒマラヤ鉄道の予約を試みたが、できなかった。ここシッキムでは扱っていないとのことだった。明日に乗るつもり(ガントクからクルシャンまで車で行き、そこから電車)で考えていたが、再考を余儀なくされた。 ホテルに戻り、それから近くのタクシー・スタンドでルムテクのゴンパへ(往復Rs. 600)。片道1時間くらいかかっただろうか。ルムテクに入ってからの道はかなり険しい。 正式にはダルマ・チャクラ・センター(Dharma Chakra Centre)と言うらしい。かなり大規模な施設だ(入場Rs. 5)。中心の本堂は圧巻。リアル。また、多くの僧が修行を行っている。こうした人々の社会的意義について考えさせられる。 帰り道、チャーイやモモを扱う商店の前で、僧たちと1人のインド人観光客が議論を交わしていた。仏教にとっての神とは何か。神は何をしてくれるのか、など。自分はその脇で、ベジ・モモを食べながらしばらく議論に聞き入っていた。僧はヒンドゥーとの対比から説明しようとするのだが、ヒンドゥーの在り方についても僧とインド人の認識は一致せず、議論が進まない。また、ふとインド人が投げかける素朴な問いに、僧が答えに窮し、僧たちが答えをめぐって議論を始めることもあった。 インド人観光客の妻と子供は暇そうにしていた。 ちなみに、ここのベジ・モモはとてもおいしかった。自分の知っているモモの中では最高の味。ベジなのに、日本の餃子に近い味。 心に残る体験をして、ルムテクを去る。ガントクに戻り、MGロードの店で揚げたモモを食べて小腹を満たし、ホテルに戻る。シャワー。ここは良く水もお湯も出る。 騒がしいディーワーリーの夜が始まっていた。そこいら中で花火。騒がしい。しかし、店はほとんど開いている。デリーとは大違いだ。 MGロードのPub 25というバーに入った。ほとんど客はいなかったが、ディーワーリーの喧騒を見下ろせる窓際の席に向かうと、自分と同じようなことを考えたのだろう、他のも客が1人だけいた。北インド系の女性らしい風貌で、ずっと書き物をしていた。書くことを仕事にしている人だろうか。 デリーでは見たことのないビールを注文してみた。まず、ダンスバーグ(dansberg)。シッキム・オリジナルらしい。アルコール5%。温い。炭酸も弱く、パンチ力不足。サラリとした感じ。味は薄いが、甘い感じの後味が残る。米系みたいな感じ。インドで好まれるビールの正反対を行っているような気がする。 次は、ヒット(Hit)。スーパー・ストロング(アルコール8%)。これも温い。涼しい土地柄、冷たいビールを飲む習慣がないのだろう。いかにもストロング・ビールという、アルコールを足したような味。 つまみのチキン・ティッカは柔らかくておいしかった。それに気を良くして、調子にのってビーフ・ステーキを注文してしまったが、これは大失敗。肉が硬くて食えたものではなかった。 ホテルに戻り就寝。深夜まで花火の騒音…。
10月16日(金)
午前3時半、自分でセットしたタイマーで起床。タイガー・ヒル観光だ。ホテルの外に出て少し待つと、タクシー到着。出発。 運転手は「遅れてすまない」と言う。うそだ。遅れてなんかない。車は約束の時間より前に着いたが、自分がそれよりちょっと早くに外で待っていただけだ。そのことを指摘したら、笑っていた。こんなに腰の低い人々がインドにもいるのか。 タイガー・ヒルというのは、ヒマラヤ山脈を見る絶好のポイントとして観光地になっている丘。日の出前に到着するのが定番だ。見学料金がかかる。場所によって料金が違う(建物の外、中の低層、中の高層)。自分はRs. 40でスーパー・デラックス・ラウンジをチョイス。ここはチャーイつき。 ここダージリンは霧が多い土地。晴れ渡ったいい景色を望むことができるとは限らない。この日は、非常にいい日だったらしい。きれいに晴れ渡り、すばらしい景色を眺めることができた。 まだ暗い。 夜が開け始める。 まず、遠くの山々に日があたる。 日の出ともに歓声。 山々がよく見える。 肉眼でもはっきりと。 日の出。 多くの観光客。 屋根の上に載っている2人は反則だと思う。 大賑わい。 日が昇ると、観光客と車は一斉に丘を降りる。途中、イガ・チョリン・ゴンパ(Yiga Choling Gompa, ただ)と第3次印パ戦争の記念碑(War Memorial, Rs. 5)を見学してホテルに戻った。記念碑のほうは、山々と花を楽しむスポットとなっており、戦争の記録に関心を向ける人は少ない。 ホテルでは朝食が付いているとのことだったが、とにかく眠かったので、部屋に戻って寝てしまった。11時、チェック・アウト。結局シャワーは浴びなかった。あまりお湯も出なかったので。 ジープ・スタンドから、乗合ジープでシッキム州の州都ガントク(Gangtok)を目指す(Rs. 130)。 3列座席のジープ。最前列に4人(運転手含む)。中列5人(ただし1人子供で膝の上)。後列4人。計13人。無論、かなり厳しい。自分は後列右端。 12時ごろに出発して、途中1回の休憩をはさんで、4時ごろに到着した。シッキム州入境のポイントでは外国人の自分だけが事務所で手続き。許可証はすでに持っていた(ここでも申請可能)ので、10分ほどで終了した。他の客をさほど待たせずに済んだ。 道はスィリグリー=ダージリン間ほど過酷ではない。山道であるには違いないが、とくにシッキムに入ってからは道が比較的きれい。一度山を降りて、川沿いを進み、再び山に登るイメージ。一度標高がさがったところでは気温が上がった。それに伴って乗客は服装を調節(薄着→厚着→薄着→厚着)。 狭い車で長時間の移動に疲労困憊。早く宿を見つけたい。 ガントクは思いのほか、大きな街だ。私営ジープのターミナルは街の中心部から少し下(傾斜の厳しい土地にあるこの街では、「上」と「下」で方角を表す)にあった。そこからタクシーでも拾うつもりでいたが、通りすがりの一般の車が乗せてくれた。もちろんタダで。 ホテル探し。『歩き方』や『ロンプラ』掲載のNew Modern Central Lodgeを探したが、見つからなかった。近くのトラベル・ロッジTravel Lodgeという安宿にした(『ロンプラ』)掲載(Rs. 600)。部屋の見た目はきれいだが、機能的には所詮安宿。ドアはかなり強く閉めないとオートロックが作動しない。いくつもコンセントが壊れている。テレビも写りが悪い。でもホット・シャワーはちゃんと出た。シャワーを浴びて、一息。ここがデリーならちょっと休憩したいところだが、早く店が閉まってしまうと困るので、早速レストランへ。 ガントクはかなり栄えている街だ。中心にはベネトンなどのアパレル・ショップがならぶ。銀行のATMも多数。夜まで人通りが多い。この日はディーワーリー前日という特殊性もあるが、おそらく普段から賑わっている街なのだろう。さすがに、小国であったとはいえ、かつての首都だ。 ガントクの中心・MGロードのちょっと高そうなレストランへ(名前忘れた)。シッキムらしいメニューを期待したが、普通に中華と北インド料理のメニューだった。エビのフライをつまみに、ビール(いつものカールスバーグ)を2本飲んだ。 せっかくなので、主食はシッキムらしいものを食べたい。そこで、もう1件、ホテルに近い、タンゲリン(Tangerine、『ロンプラ』掲載)というレストランへ。モモを注文したが、品切れ…(モモは手間がかかるので品切れになったら終わり)。しかたなく、ラム酒とチキン・ヌードル(ただのインド風中華・チョウメン)。チョウメンの味は良かった。 ホテルに戻って就寝。
1日目:10月15日(木)
旅立ちの朝は大概待ち遠しいものだ。期待と不安を抱きつつ、つい早く目を覚ましてしまうことなどが多い。 しかし今回はそうはいかなかった。旅立ち前にどうしても終わらせておくべき仕事が残っており、完全な徹夜で旅立ちの朝を迎えた。かろうじて朝6時ごろまでに仕事を終え、それから旅支度をあわただしく整えた。 朝8時、寮で朝食を済ませる。寮の朝食はパン食かインド料理メニューかを選べるようになっており、後者を選択することが常なのだが、この時点ではまだパン食しか準備ができていなかったため、やむなくパンにバターをつけて口に放り込む。寮で出されるパンは嫌いだ。これを食べるといつも、日本のおいしいパンが頭をよぎる。 タクシー(easy cabs)は前日に予約を済ませておいた。10時15分発のフライトから逆算して、8時30分に予約した。1時間少し前に空港に着く計算。あまり時間的余裕がないのは、このタクシー会社を信用してのことだ。 朝食を終えて、予約時間の10分ほど前に寮の前の広場に出た。同じ寮の韓国人学生と会話をして待つ。この人とは初めて話した。てっきりインド北東部の人だと思っていた。向こうも自分のことをそう思っていたらしい。 時間になっても車が見えないため、寮の前のバス・ロータリーまで出るが、車は来ない。 予約時間を20分過ぎても来ない。 おかしい。 タクシー会社に電話をして確認する。こんなときに限って回線が混んでいて、なかなかつながらない。ようやくつながって確認すると、なんと車はこちらに向かっていないという。タクシーの運転手が確認の電話を自分の携帯に入れたが、電源が切られていたため、キャンセルしたとのことだった。電源が切られていたというのは事実でない。電波の入りが悪かったか、運転手が嘘をついているかのどちらかだ。仮に前者だったとしても、SMSを送るなり、繰り返し電話をかけるなり、適切な対応を重ねるべきであったはずだ。このタクシー会社のシステムは信頼しているが、システムがしっかりしていても人が悪ければどうしようもない。 ともかく、すぐに車を向かわせた。それから20分ほど、9時20分ごろにようやく車が来た。急ぎ空港に向かうよう言ったが、この運転手は実に安全運転。普段ならば評価するところだが、なぜこの急ぐときに限って遅い。路上では同社のタクシーに追い抜かされた。それでも順調に9時40分着(タクシーはRs. 165)。フライト30分前。間に合った。 チェック・インもセキュリティ・チェックも空いており、余裕を持って搭乗ゲートまで間に合った。チェック・イン時に割り込みを試みる不届きものがいたが、一喝したところすごすごと引き下がり、他のカウンターに割り込みに行った。こういう場所のマナーを知らないのだろう。さて、チェック・インが遅れたために席が悪いのは仕方がないとしよう(3人席の真ん中)。しかも、出発は大幅に遅れた。1時間近く遅れて、11時ごろの離陸となった。 今回はJet Airways社のJet Konnect便。機内食が有料の会社だ。デリー発、バグドグラ経由のバグワティ行き。ほぼ満席。フライト自体は順調で、午後1時半ごろにバグドグラ空港に到着した。バグドグラで降りる客が多い。欧米系の客が多いのは、おそらく自分と同じくダージリンやシッキムを目指す人々なのだろう。 周囲は平地。緑豊かで、まるで東南アジアの様相。山に近い土地を想像していたので、予想外であった。 当然、暑い。 行き先を考えて服を多く持ってきているが、まだ着なくてよかった。デリーの空港では少し迷っていたのだ。降りるときを考えて長袖を着ておくべきか否かを。半袖のTシャツで正解だった。 この空港のセキュリティはかなり厳重。理由は後で。 空港のプリペイド・タクシーを利用し、最寄りの街のスィリグリー(Siliguri)へ。バグドグラ空港からスィリグリーのバス・ターミナルまででRs. 260。しかし、タクシーを降りたその周囲のバス・ターミナルは見えない。ジープはたくさんいるのだが。実は、タクシーの運転手がこの後どこへ行くのかと聞くので、ダージリンに行くつもりだと答えたところ、気を利かせてダージリン方面行のジープが集まる場所に降ろしてくれていたのだ。さりげなく気を利かせてくれた結果なのだが、これは余計なお世話というもの。ダージリンに向けて発つその前に、この街でやることがあるのだ。バス・ターミナル近くのシッキム州政府事務所でシッキム入境の許可書を得る必要があるのだ。 『歩き方』の情報にしたがって、「シッキム・ツーリスト・インフォメーション(Sikkim Tourist Information)」の場所を訪ねてまわったのだが、反応が芳しくない。シッキム方面行の旅行業者か何かを探していると思われたのかもしれない。サイクル・リクシャーを使って何とかたどり着いてわかったのだが、しっかりとした州政府のオフィスがあり、「シッキム・ツーリスト・インフォメーション」はその中の部署の名前にすぎない。なので、単純にシッキム州政府事務所の場所を聞くべきだったのだ。 シッキム入境許可証の申請。パスポートとビザのコピーと、それから写真1枚が必要。無料。コピーは自分で用意する必要がある。申請書類を記入して、外にコピーをとりに行って、戻ってそれを提出し、それから5分くらいで手続き完了。手際はよいし、対応もよい。ガイドブックもくれた。係官は当然東アジア系の顔立ち。なお、入境日を特定しておく必要がある。 無事に許可証を入手できた。ここでちょっと一息。ダージリンに向かう前に、ランチにしよう。 すぐ近くのレストランへ。パニール・マッカーニー(Paneer Makhani)とナーンのセット。とてもおいしい。あと、ちょっとリスクを感じながら、コールド・コーヒーを注文。 一息ついて、いざダージリンへ。考えられる移動手段には、バス、ジープ、タクシーがある。長距離バスはもう懲りている(参照)。実質2択だ。 シッキム州政府事務所すぐ近くのジープ乗り場へ。すると、すぐにジープの手配師が寄ってきた。乗合ジープは20分ほど待たねばならないと言う。同じ型のジープを1人で借りきればすぐに出発できて、Rs. 900とのこと。 少し迷ったが、ここは小銭をケチることよりも、時間(夕方までに着きたい)と体力(徹夜明け)のことを考えて、ジープを借りきることにした。 手配師と運転手が揉めている。「ダージリンまでRs. 500って、それはないよ…」みたいなことを運転手が言っている。手配師、取り過ぎ。手配師は自分に向かって、「この運転手はoldだから、チップを後で弾んでやってくれよ!」みたいなことを言う。ここで言う「old」は、おそらく経験豊富だよ、というアピールなのだろう。結果的に、運転手が丸めこまれた。ちなみに運転手は日本の農村のおじさんのような東アジア系の顔立ち。手配師は北インド的な若者。手配師の勝ち。 3時ごろ、ダージリンに向けて出発。 初めは平野部。茶畑、蛇行する川…。 しばらく行くと、裾野の景色。正面に、山脈が見えてくる。軍の基地や演習地の中を通り抜ける。富士の裾野を思い起こさせる景色だ。 徐々に山道に。狭く、舗装が酷い。そこら中に穴が開いており、穴は近くの河原から運ばれたであろう大きめの石で埋められるだけ。当然、激しく車は揺れる。借りきって良かった。 そして、完全な山道。蛇行する狭い山道を駆け、一気に標高を上げていく。がけ崩れ、道路が崩れている個所も多い。途中、滑落していた大きな岩石に車体をこすりながらかろうじて通り抜けられるところもあった。 標高差1,000メートルほどあったと思われる(後で調べたら2,000メートルもあった)。山道を囲んでいた木々は背の低いものの代わる。気温ももちろん下がる。Tシャツ1枚でスタートしたが、途中で長袖のパーカーをはおり、さらにショールを身にまとった。 出発から2時間ほどで、早くも太陽が沈みかける。山間は日の入りが早い。 山を登り切って山脈を越えると、向かいの山脈の中腹に街が見えた。あれがようやくクルシャン(Kurseong)の街だ。まだダージリンまでの道半ばか。 クルシャンの街からは交通量の多い国道55号に入り、世界遺産ダージリン・ヒマラヤ鉄道の線路と平行する。ここからは標高差は少ない。 あとで判明したことだが、クルシャンまでの激しい道は、いわば裏道。表の国道55号を使えば、これほど過酷ではない。この裏道は、それなりの体力がないと耐えられないだろう。 大きな地図で見る (国道55号は、スィリグリーから一旦西に向かい、川沿いを北上する。それに対し、今回利用した山道は、スィリグリーからまっすぐ北に向かう道。山々に正面から挑むルートだ) 午後7時、ようやくダージリン着。4時間もかかった。『歩き方』にはスィリグリーから2時間と書いてあるのだが…。遠回りしたわけでもないし…(むしろ近道)。クルシャンからの国道55号の混雑がなかったとしても、2時間で着くとは到底思えないのだが…。裏道がいけないのだろうか… ダージリンのジープ・ターミナルで降りる。チップは要求されなかったので渡さなかった。素朴なおじさんだった。 もう真っ暗。疲労困憊。『歩き方』掲載のデカリン(Dekeling)というホテルへ。 部屋はいくつか空いているようだった。一番高い部屋をチョイス(税込Rs. 1,900)。山小屋風で、設備は大して良くない。お湯もあまり出ない。それどころか、ダージリンは水不足で水すら危ういとのことだった。 チェック・イン時に、翌朝のタイガー・ヒル(Tiger Hill)見物のタクシーを手配(Rs. 600)。 夕食はホテル1階のチベット料理屋デカヴァス(Dekevas)。観光客で賑わっていたが、店員が少なく、サーヴィスは非常に悪い。注文は自分で紙に書く。その代わり、値段は安い。チリ・ポーク、バター茶、トゥクパを注文(Rs. 200)。かなり待たされた後、なぜかバター茶とトゥクパが先に出てくる。順番がおかしい(普通、麺類は後で、茶はさらにその後だ)。しかたないのでトゥクパを先に食べる。全然おいしくない。味が無い。塩を振りかけて食べた。バター茶は初体験。そういうものなのだろうけど、これもおいしくない。かなり遅れて出てきたチリ・ポークが実は一番マシだった。インド的でない、日本の中華に近い味付け。 飲み物を買って、部屋に戻ってすぐ就寝。シャワーを浴びる余力もなく、ダウンしてしまった。前日は寝てないし、仕方ないか。
10月中旬のダージリン・シッキム遠征。いつものようにブログにアップするつもりが、だらだらと1カ月近く経過してしまった。そろそろ書いておかないと忘れてしまいそうなので、ここらで一気に書き出してみることにしよう…。
2009年10月15日~10月20日 ダージリン・シッキム遠征 2年間のインド留学も終わりが見えてきた。残りの月日を考えると、出来ることは限られてくる。旅行もあと数回だろう。そう考えたときに、どうしても留学中に行っておきたいところの1つが、ダージリン・シッキムであった。夏にも一度計画したが、そのときは航空券を取れずに断念した。今回は満を持して、早めにチケットも手配して迎えた。スケジュール的には厳しい時期だったが、雨期が終わり、かつ寒くなる前というこの時期・10月中旬に(かなり無理をして)5泊6日の旅程を設定した。 1日目:10月15日(木) デリー―(飛行機)→バグドグラ空港―(タクシー)→スィリグリー―(ジープ貸切)→ダージリン 2日目:10月16日(金) ダージリン観光―(シェア・ジープ)→ガントク 3日目:10月17日(土:ディーワーリー) ガントクおよび周辺観光 4日目:10月18日(日) ガントク―(シェア・ジープ)→ダージリン、観光 5日目:10月19日(月) ダージリン―(ダージリン・ヒマラヤ鉄道)→スィリグリー 6日目:10月20日(火) スィリグリー―(オート・リクシャー)→バグドグラ空港―(飛行機)→デリー
ナシゴレン(Nasi goreng)。
インドではなく、インドネシアの料理。 日本で食べた記憶はない。インドに来てから見知った料理だ。ちょっと気に入っている。ご飯ものだけを食べたいときに、重宝する(通常、ご飯ものだけ頼むと奇異の目で見られる。汁物はどうした、という具合に)。東アジア系メニューを扱うレストランにはかなりの確率でメニューに記載されている(無論、インドネシアが一般に言う「東アジア」でないことは承知)。 10日ほど前、India Habitat Centreというコンベンション・センター(@ Lodhi Road)内のレストランOriental Octopus(オリエンタル・オクトパス)で食べた。今日も、Near East(@ Basant Lok)というレストランでランチに注文してみた。 ところで、wikipedia(参照)に見るナシゴレンと、インドで出会うナシゴレンはかなり違う。 インドでは、必ず串に刺さったチキンが伴う(過去4事例中、該当4件)。そのチキンは、ココナツの風味をまとっている。また、米が赤い。かなりスパイシーな味付け。 騙されているのだろうか・・・。
かつての日航ホテル、現メトロポリタン・ホテルの和食レストラン、さくら。ここ数日の間に2回も行く機会があった。
南デリーに点在するお手頃価格の和食レストラン・たむらと比較すると、値段も品質もこちらの方が上。たむらはほぼ和食、くらいのレベルだが、さくらでは標準的なレベルの和食が食べられる。ただ、さくらもあくまで普通の和食であり、上等とは言えないと思う。 それでもデリーでまともな和食を食べられる希少価値がこれまではあったわけだが、昨今和食レストランが増加し、さくらの強みは薄れつつあるように思う。 この2回でかなり多くのメニューを食べた。 蕎麦は良くない。市販の乾麺でも使っているのだろう。調理の問題ではなく、素材の限界。仕方ない。 それに比べて、うどんは良かった。稲庭。讃岐が好きな人にはダメだろうけど、自分の好みには合う。力強さが重視される讃岐系を高いレベルで供することは難しいだろうが、食感重視の稲庭なら市販の乾麺でもそれなりのものが出せる。昨日食べたたぬき稲庭うどんはとてもおいしかった。 |
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toshi
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自己紹介:
2008年7月から2010年5月まで、ジャワ―ハルラール・ネルー大学留学。
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